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『環境と正義』から
  藤前干潟問題総集編

   これまでに『環境と正義』に掲載された、藤前干潟に関する原稿をまとめました。

2000.07.17     


藤前干潟関連記事一覧

11号(6月号・1998年5月25日発行)
 藤前干潟事件 
        籠橋隆明(名古屋弁護士会)
22号(7月号・1999年6月25日発行)
 藤前干潟の残したもの 第1回 藤前保全を世界に報告
        辻淳夫(藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員)
23号(8・9月合併号・1999年7月25日発行)
 藤前干潟の残したもの 第2回 しなやかな市民運動の力
        辻淳夫(藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員) 
25号(11月号・1999年10月25日発行)
 藤前干潟の残したもの 最終回 藤前から伊勢湾の環境復元へ
        辻淳夫(藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員)
 諫早から藤前へ −NGOの学んだもの
        古南幸弘(財団法人 日本野鳥の会自然保護センター副所長)
26号(12月号・1999年11月25日発行)
 藤前干潟はいかに守られたか −名古屋市の環境アセスメント手続き
         花輪伸一(WWF Japan自然保護室)
27号 (1・2月合併号・1999年12月25日発行)
 藤前干潟はいかに守られたか
        柏木実(日本湿地ネットワーク運営委員)
28号(3月号・2000年3月25日発行)
 
藤前干潟 国際的な問題
        鈴木マギー(日本湿地ネットワーク国際担当)
29号(4月号・2000年4月25日発行)
 住民投票条例と藤前干潟
        中川武夫(「藤前干潟の埋立をやめ全面保存すること」の是非を問う
                住民投票を求める実行委員会・代表世話人) 
30号(2000年5月25日発行)    
 諫早から藤前、そして...
        山下弘文(日本湿地ネットワーク運営委員)        


藤前干潟事件
弁護士 籠橋隆明(名古屋弁護士会)

一.はじめに
 諫早湾干拓事件をきっかけに公共事業の問題点や、干潟などの自然生態系の保護の重要性などが大きくクローズアップされた。東海地域においても、現在名古屋市により藤前干潟が廃棄物処理場建設のために埋め立てられようとしており、大きな社会問題となっている。藤前干潟は現在シギ・チドリ類の飛来数では日本一となっており、わが国に残された貴重な生態系を形成しており、藤前干潟の保全は国際的な課題ともなっている。

二.事案の概要
 名古屋市港湾整備計画によると、一九六四年頃、名古屋港港湾管理組合は名古屋港西一区には内貿埠頭一〇五ヘクタールの埋め立てによる開発が計画された。内貿埠頭とは国内流通 のための埠頭という意味である。一九八四年頃になって、名古屋市は西一区に土砂などの代わりにゴミによる埋め立て計画を立案し、それに伴い、港湾計画も埋め立て材が土砂からゴミに変更された。しかしながら、我が国に残された数少ない干潟を消滅させるこの計画に対しては大きな非難がわき起こり、名古屋市の計画は当初一〇五ヘクタールであったものが、一九九二年三月には五二 ヘクタール、一九九四年一月には四六・五ヘクタールと計画が縮小され、今日に至っている。
 あくまでこの土地の埋立にこだわる名古屋市の言い分は市のゴミ処理能力が限界に来ているというものだ。しかし、名古屋市のゴミ政策は他都市に比較して立ち遅れていることや、本件予定地以外にも名古屋港には未使用のまま放置されている土地があることを考えるとこの大義に真実があるとは思えない。
 この藤前干潟事件については日本環境法律家連盟の弁護士を中心に弁護団が結成され、法的問題点の検討を進めている。藤前干潟について法的観点からの検討はこれが初めてであり、検討を進める中で実に多くの問題点が発見された。もう少し早く法的検討が進められていれば事態は異なったものと思われ悔やまれる。問題点を大きく整理すると次の三つの観点から分析できる。

三.アセスメントの問題点
 問題点の第一はアセスメントの不備である。名古屋市はアセスメントを一九九四年一月より実施し、その結果 を一九九六年七月に「環境影響評価準備書」という形で公表した。この手続きは名古屋市環境影響評価指導要綱(一九七九年)に基づくものとされているが、法的な形式から言えば、アセス会社との契約は名古屋港管理組合との間で締結されており、名古屋市の役割は資金提供にとどまっている。このような形式となっているのは本件アセスメント手続きが公有水面 埋立法に基づき作成される環境影響評価を兼ねたものとなっているからである。
 このアセスメントにはわれわれが調査した範囲内でも約六億九二六二万円が使われているのであるが、開発に対し有利な方向に働くよう意図的な操作がされていると思われる。例えば、準備書では藤前干潟の表層不一〇センチメートルの範囲の採泥によって底生生物重量 を検討しているが、それを表層一〇センチメートルより深い範囲に生息するアナジャコ、ゴカイ、カニなどが検討対象から除外されている。あるいは、渡り鳥の調査にあっては、調査時期を渡りの重要な時期から外したり、鳥の採餌料も小さく著しく不自然な記載となっている。準備書に対してはそのほかにも、市民団体などからの多くの指摘を受け、市のアセス審議会は「事業が実施されるとすれば、環境への影響は明らかである」との行政側の委員会としては異例の結論を出すに至っている。

四.海の所有権をめぐる問題点
 問題の第2は本件開発予定地の所有権に関するものである。本件干潟は「海」(この場合の海とは海底の土地及びその上部の海水の総体をいうが、実際問題になるのは海底の土地である。また、海の範囲であるが、春・秋分の満潮位 の水際線を境とするのが判例である。)と考えられ、自然公物であるから海には原則としては所有権は成立しない(最高裁昭和六一年一二月一六日第三小法廷、判例時報一二二一号三頁など。)また、本件干潟の実態を調査しても現実に何ものかが海底の土地を支配してる事実は存在しない。名古屋港港湾管理組合の見解も本件干潟には所有権は成立しないとしている。ところが、本件干潟は海であるにもかかわらず登記が存在し、名義人も存在している。この干潟が名古屋港の深部にあって、尚今日まで存続し得たのは、所有権の存在を否定する
管理組合は立場上、所有権を前提とした交渉を名義人と行うことができなかったからである。ところが、名古屋市は例外的に私的所有権が認められるとしてこの土地を約57億円で購入したのである。
 名古屋市はこの土地を将来放棄して国の帰属とし、公有水面埋立手続きを進める予定でいる。所有権が成立するとは思われない土地を購入したことや、その購入金額も法外であることなど、土地売買をめぐってはいくつかの不正が積み重なっている。この問題も非常におかしいのであるが、干潟との関係では公有水面 埋立法と関係が重要である。同法一条によると、公有水面とは国の所有に属する水面 、水流を言い、名古屋市の考えに従えば、本件干潟を公有水面ということはできない。公有水面 埋立免許は埋立地について新たに権利を原始取得させる手続きであるから、既に所有権の認められる土地に当てはめることは二重の所有権を認めることになり、いわば私有水面 とも言うべき場所にこの手続きを適応させる場合には民法との整合性をはからなければならなくなるのである。

五 港湾法との関係について
 問題点の第3は港湾法に関するものである。本件埋立は港湾計画上は埠頭建設であり、緑地の造成と位 置づけられている。名古屋港管理組合は港湾区域の管理、開発のために設けられた一部事務組合であるが、その目的は港湾法が定める港湾管理者としての業務を全うするためのものである。従って、港湾管理組合の業務は港湾の管理、開発業務に限定される。名古屋市の廃棄物を処理するための廃棄物処理場建設は、名古屋市のためのものであって港湾管理・開発のものではない。本件処分場の事業主体は法律上は名古屋港管理組合となっている。そうであるならば、本件処分場開発は組合の目的外行為となって違法ではないか。
 この点、組合はゴミは埠頭建設のための資材(本来土などであるが、そのかわりにゴミを用いる)との考えており、目的はあくまで緑地等の開発であるという。しかし、資材と言おうと何と言おうとゴミ処分場であることには変わりはない。埠頭建設、緑地造成はゴミ処分場開発の実態を覆い隠す目的の偽装である。従来、ゴミは資材という詭弁に惑わされることもあり、この点での検討が不十分であったと思われる。

六 今後の方向
 以上、本件に関する三つの基本的問題点を指摘したが、われわれはこれらの問題をさらに細かく検討し、最終的には公有水面 埋立法違反に結びつけて構成することになろう。ともかく、当弁護団の役割は干潟のためにあらゆる法的論理と法的手段を駆使して、公有水面 埋立手続きの利用を断念に追い込むことにある。藤前干潟は名古屋市という大都市の中にあって奇跡的に残された生物たちの最後の住まいである。そこには現代社会が自然と共に維持できるか、現代国家が自然に対する価値をどのように位 置づけるかという重大な課題が存在する。我々は自然のための弁護団としてこの大きな課題に対する回答を探していきたいと考えている。


藤前干潟の残したもの 3回連載第1回
 辻 淳夫 @藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員 

 藤前保全を世界に報告

 5月10-18日、中米コスタリカの首都サンホセで開かれた、ラムサール条約締約国会議(CoP7)に参加して、藤前干潟の保全を世界に報告しました。頂いた暖かい拍手と、よろこびのご挨拶は、名古屋市と名古屋市民の決意と努力を称え、今後のゴミ問題解決を期待するものでした。

 本当は名古屋市長さんに、直接その声を聴いてもらいたかったのですが、ちょうどその時、松原市長は、やっと始まったビン缶 分別収集の全市展開に立ち会って各区を回っておられたそうで、そのことに頭がさがりながら、藤前のゴミ埋立断念が名古屋市と名古屋市民に大きな意識改革をもたらしていることを心から嬉しく思いました。

 藤前干潟の保全へいたる道を振り返る時、たくさんの要因の中で、国際的な湿地保全の流れと、世界の方々からの支援も、その大きな力のひとつでした。そこでコスタリカから帰ったところで、先ずは藤前干潟とラムサール条約の関わりを書いてみます。


 先ず、ラムサール条約とは、正式な名前を「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい、1971年、イランのラムサールで締結されました。条約が定義する湿地とは、湿原、湖沼、河川、水田、干潟、浅海域(最大干潮からマイナス6m推進)などで、そうした湿地(Wetland)が地球環境の中で熱帯雨林と並ぶ高い生物生産力をもつ環境であるという認識に基づいています。その締結には、欧米先進国での開発による湿地破壊の経験を踏まえたIUCN(国際自然保護連合)やIWRB(国際水禽湿地調査局)など国際的なNGOのはたらきが大きかったといわれます。

 その理念は、湿地生態系の保全と、生態系の特徴を活かした利用を認めるワイズユース(賢明な利用)で、他の保護条約、例えば絶滅に瀕した野生動植物の保護や、渡り鳥保護条約などが、種を対象にしていることと比べて、種の生存を支える環境、生態系の丸ごとの保全をめざすものです。全体で12条からなる小さな条約ですが、1980年以来3年ごとの締約国会議で議論された決議・勧告による積み上げがはかられ、当初は水鳥生息地という側面 が重視されていましたが、魚類にとっての重要な環境、生態系、多様性の重視と視点が広がり、今度のサンホセ会議で、登録地の基準が書きかえられました。

 1971年といえば、私自身が鍋田干拓地先の干潟の埋め立て(名港西5区)に直面して干潟保全の活動を始めた時であり、環境庁が発足した年でもあります。日本は1980年に加盟し、釧路湿原や伊豆沼など淡水湿地から登録地指定を進めましたが、開発が先行していた干潟や浅海域では、1993年の釧路会議(CoP5)でやっと東京湾の谷津干潟が登録されただけでした。

 この釧路会議で、私は草の根NGOの集まりである日本湿地ネットワークを代表して、日本の干潟消失の歴史を説明し、その最後の砦である4大渡来地、東京湾三番瀬、伊勢湾藤前干潟、博多湾和白、有明海諫早干潟の緊急保全を訴えました。

 その結果、東アジアの渡り鳥の航路にある湿地(特に干潟)の登録促進勧告が採択されたのですが、事態は変らず、会議直後に博多湾の人工島は着工され、諫早湾閉め切りの工事は止まらず、翌年には藤前のゴミ埋立計画が環境アセスメントの手続きに入り、三番瀬の開発計画も進みました。

 1963年のブリスベン会議では、日豪の協力でシギ・チドリの渡来地ネットワークが発足し、谷津干潟と吉野川河口が参加するのですが、開発の見直しには力にならず、翌1997年にあの「ギロチン」の惨劇が行なわれたのです。


 諫早の惨劇は世界の人々に衝撃を与え、その後日本最大のシギ・チドリ渡来地となった藤前のゴミ埋立計画に大きな世論の盛り上がりをもたらしました。その頃藤 前干潟では、「市民の科学」が欺瞞的な環境アセスメントを打ち破りつつありました。1998年3月には、市長の諮問機関である審査委員会が、『環境への影響は明らか』とする画期的な判断を出したのです。しかし、委員会は同時に「代償措置」という逃げ道を用意し、名古屋市はなんと埋立計画地の先の干潟をさらに埋め立てる「人工干潟」で強行突破を図ろうとしたのです。その強引さは、検討委員会が指摘した「試験試行」の必要性を認めながら、結果 を待っていては事業計画が遅れるから、「同時施行」するという無茶なものでした。

 世界の良識は、このあまりの不条理に心底からの憤りをもって抗議したのです。


 私には、藤前ゴミ埋立が強行されたままでのサンホセ会議を想像できませんでした。

 諫早と藤前が象徴する日本人の野蛮さへの非難と蔑視があからさまにされただけでなく、ラムサール条約の存在意義さえもが問われていたに違いないからです。

 幸い、環境庁の毅然とした態度によって、最悪の事態はかろうじて直前回避され、世界から拍手を受けたのですが、何より嬉しかったのは、最終的には欺瞞と不条理を許さず、道理を通 した日本の世論、市民社会を誇らしく思えたことでした。

 今回のラムサール会議のテーマが、"People and Wetlands - The VitalLink"(人と湿地−いのちのつながり)であり、湿地の保全が何よりも先住民、地域社会、NGOの参加とはたらきなしにはありえないという認識に国際社会が立っているからです。

 生物多様性の国コスタリカ、中米の発展途上国での初開催がそれを強調していました。

 本会議に先立って開かれたプレNGO会議のまとめと要請が本会議第1日に発言の場を与えられたり、NGOが準備した潮間帯湿地保全決議案の採択など、NGOの参加と貢献が際立ったラムサール会議でした。

 そんな中で、藤前干潟の保全は、市民が道を開き、社会がそれを支えた好事例として、公共事業や社会のあり方に転機をもたらし、21世紀の地球のいのちと子どもたちに希望をつなぐものとして、国際社会に共有されることになったのです。


藤前干潟の残したもの(3回連載第2回)
辻淳夫(藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員)

しなやかな市民運動の力

 「藤前ゴミ埋立断念」は、これまでの公共事業のあり方を良く知っている人ほど、驚きをもって受け止められたようです。215万都市のゴミ処分場という、とりあえず必要性は疑えない計画を、名古屋市が17年の歳月をかけ、地元での手続きをすべてすませ、あとは運輸省へ認可申請を出せば終わりと思われていたからです。
 正規の手続き前に、環境庁の毅然とした意思表明があり、その意見に従うとした運輸省発言から事態は急展開し、愛知県の斡旋、名古屋市の断念となったことから、そこに何があったのか、「粘り強い市民運動」と誉めていただきながら、どうやって成功させたのかとよく聴かれます。
 ほんとうに長い道のりの中で、いろいろな場面での、いろいろな方の努力があり、それらすべてが今につながっているのですが、いつもたいへんな「好運」と、「時代の要請」といったものに支えられていたと思います。そのすべてを語ることはできませんが、私たちが、どんなスタンスで活動をしてきたかを振り返ってみましょう。

● 共感を広げる
 私たちの活動の原点は、渡り鳥との出会いの感動を伝えたい、生息地を奪われ、激減の危機にありながら、ものいえぬ 彼らを代弁したいというところから始まりました。それはすぐに、自分の出すゴミで彼らの餌場をつぶしたくないという人々に出会い、開発で身近な自然を失ってきた上に、大量 のゴミで環境をつぶしてゆく社会のあり方を変えなければという「社会的な気づき」につなげてきたのです。
 藤前干潟を守る会は、会費を払って会員としての利益を享受する「会」ではなく、自発的な意思で、どんな形であれ、会の活動に寄与するものが仲間である「運動体」という意識で、多彩 でしなやかな市民活動をひろげる合言葉は「チエでも、ヒマでも、おカネでも」でした。
 環境問題はすべての人に共通だからと、活動はつねに「超党派」、「全方位」で行ない、それが1991年の10万人請願で市議会の全党派代表が紹介議員になり、当初計画を半分に縮小させることになり、また最終局面 で国政レベルを動かす力にもなりました。

● 「アワスメント」を打ち破る
 計画縮小で「環境保全に配慮」したとして、市議会も請願審議を打ち切り、名古屋市が事業実施を決め、いよいよということになって、市長選までやったが完敗したという頃が会の活動としても、私個人としても一番苦しい時でした。
 ラムサール条約の釧路会議で訴えたときの世界の人々の理解と支持、干潟に入ったときの子どもたちの輝く笑顔に支えられて、1994年に開始された環境アセスメント手続きの中でがんばろうと気持ちをあらたにしました。
 名古屋港域とされた8000haの干潟・浅海域が4000haの埋立地と浚渫された航路などに変えられた中で、好運にも残されていた100haほどの干潟がいかに重要なものか、シギやチドリの採餌場所としてどう利用されているか、いつも見ている私たちが一番よく分かっていたからです。
 しかし、1年間の調査と1年半の分析評価の結果として出された「準備書」は、すべての環境項目で『影響は小さい』とし、『鳥たちへの影響は1%程度』、『藤前干潟は水質浄化をしていない(海を汚している)』などと、全く驚くべき評価をしていたのです。
 私たちは「準備書」を25冊も借り出し、それぞれの分野の専門家や研究者に送り、意見を求めました。海外からの20通 を含む60通の意見書は、この準備書が、非科学的で非論理的なものであり、事業実施を前提に、結論が先にある欺瞞的なものであることを明らかにし、私たちはそれをまとめて審査会委員やメディア、関係行政に送りました。
 事業者は、これらの意見にまともに応えない「見解書」をつくって乗り切ろうとしましたが、私たちは、公聴会という公開の場で、干潮時にすべての干潟が干出している時に、最大95%(平均60%)の鳥が選択的に集中している事実や、干潟の表層10cmの泥を取っただけでは決してつかまらないアナジャコなどの存在を実証し、環境影響評価審議委員会の追加調査請求や、『環境への影響は明らか』という画期的な審査を出させたのです。

●外堀を埋める
 この画期的な審査をした委員会も、市長の諮問機関としての限界というべきか、多くの意見にもあった代替案の検討には言及せず、「人工干潟」による代償策の検討を示唆したのです。それを受けて名古屋市は「代償措置の検討委員会」を設置し、周辺の干潟をさらに埋め立てる、とんでもない案を強引に検討させつつ、効果 を実証する試験施行は必要と認めながら、その結果を待っていては事業着手が遅れると、案を添付しただけで埋め立て申請手続きに入ったのでした。
 こんなやり方が、いかに理屈の通らないものか、誰の目にも明らかです。
 公聴会が開かれた年には、諫早湾の「ギロチン」閉め切りが、人々に大きな衝撃を与えました。農地造成から防災と変えられた事業目的に誰も納得できず、不条理な公共事業の典型として、人々の憤りが集中し、それが藤前の暴挙を許さない世論につながったのです。
 私たちは、「人工干潟の成功例」としてあげられた各地に出向き、その実態調査を行なって報告するとともに、名古屋港内の代替地を具体的に見せ、名古屋市のゴミ減量 という真の代替案を、国政レベルにも提示してきました。
 超党派国会議員による視察や代替案の提言、衆議院環境委員会の現地視察とヒアリングが行なわれ、地域住民の自発投票による意思表明で名古屋市との協定が事実上破棄され、オンブズマンの海面 下土地の取得疑惑解明訴訟や、自然保護法違反の訴訟など、名古屋市の暴挙を戒め、あるべき方向への転換を促す包囲網が、急速につくられたのです。
 98年のニュース番組の報道時間で、藤前がダントツのトップと、メディアの活躍も世論を反映するものでした。
「道理を通した私たちの社会」を、今とても誇りに思っています。


藤前干潟の残したもの  3回連載最終回
辻 淳夫 (藤前干潟を守る会代表、日本湿地ネットワーク代表委員)

藤前から伊勢湾の環境復元へ
● ゴミ埋立断念への急転
 昨年12月5日の、私たちが用意した国際湿地シンポジウムという舞台で、名古屋市の強引な「人工干潟」案を明快に否定した環境庁の発言から数日で、厳しい意見を示唆する長官発言、環境庁がだめといえばできない、と応じた運輸相発言で、事態はなだれを打つように、21日の愛知県知事の代替案協議提案へと動いたのでした。
 代替案が確定するまでは、藤前埋立案をキープすると最後まで抵抗した名古屋市も、本気で代替案を求める気があるのかと省庁に言われて、一ヶ月後の本年1月26日、ついに藤前でのゴミ埋立を断念したのです。17年の歳月をかけ、行政手続きの最終段階まできた公共事業が、このような形で断念されたことはかってないでしょう。
 しかしそれは、「影響は明らか」との審査がでた環境アセスメント制度を形骸化させず、かけがえのない干潟を保全することの方に、私たちの社会がより高い公共性を認めたのだと言って良いでしょう。
 その後、代替地の交渉が必ずしも思うように進展せず、非常事態宣言を出してゴミ減量 に必死で取り組みつつある名古屋市長も、「苦しい選択だったが、正しい選択だった」と言うように、藤前を転機に、行政も人々が求めた道に向き直ったことは確かなのです。

● 包囲網の一つ、「自然の権利」訴訟
 自然の権利を擁護するために、藤前「自然の権利」訴訟に踏み切った籠橋さんを中心とする日本環境法律家連盟の方々には、いささかあっけない幕切れだったかもしれません。随分前から準備されながら、提訴が国際湿地シンポの後、年末になったために、公判の無いまま、趣意達成と言うことで、3月に取り下げられたからです。しかし、この提訴がもうひとつのオンブズマン愛知の土地売買に絡む提訴と相俟って、名古屋市に大きな圧力をかけたことは間違いないところでしょう。
 詳しくは「自然の権利」訴訟のHPを見ていただきたいが、提訴の論旨は、アセスメント手続きも含めて自然保護法違反、と公有水面 埋立法違反だったと思います。
 前者は、結果的に埋立断念となって良かったのですが、訴訟の背景にある「自然の権利」について、自然には固有の権利があり、誰でもそれを代弁し侵害を防衛できるとか、自然と仲良く付き合う社会はゆたかであるとする環境国家の理念などが、公開の場で語られることを期待していたのです。
 後者は、この事業にある基本的な自己矛盾でした。藤前干潟という法的には海である場は私権の及ばぬ 公有水面で、それを埋めて、私有権を発生させる手続法が公有水面埋立法であるのに、名古屋市は一方でその「海面 下土地」の私有権を主張していたからです。
 問題は35年前、ここに名古屋港西1区という埠頭計画ができたとき、「海面下土地」の私有権を主張した人がいたのです。公有水面 として埋立を図った名古屋港管理組合に買い上げを求め、仲介した法務省も公図が無いと結論が出せず、そのため事業は20年間放置され、その間に埋立が進んだところから追われた鳥たちの避難場所になったのでした。
藤前干潟は、先ずこの好運によって生き残り、しかし20年後にゴミ埋立に計画変更され、「海面 下土地」を名古屋市が買収し、ふたたび危機に見舞われたというわけです。
 この「海面下土地」がそもそも土地である証拠が無い、名古屋市の買収は違法ではないかと、オンブズマン愛知が名古屋市を別 途提訴し、公判は両者の証拠提出が終った段階です。今となっては、藤前干潟を自然の遺産として保全し、真に公有して行くことで和解が図られることを願っています。
    
● 藤前干潟から伊勢湾の環境復元を
 さて好運にも藤前干潟はぎりぎりのところで埋立を免れ、名古屋市は市民意識の目覚しい変化に支えられながら、「ゴミ減量 先進都市」への緊急施策として2年で2割減を目指している。最終目標である環境にゴミを出さない社会を創るために、今の名古屋市の立場でこそ出来る思いきったデポジット制の採用などの発生源対策が必要だろう。
 藤前保全の効果として、東京湾三番瀬など、危機にある全国の、やっと残されている干潟・浅海域の開発計画に見直しの機運が広まっているようだ。しかし、藤前で育った魚たちが泳ぎ出る海、伊勢湾の状況はどうだろうか?
 この夏、海の博物館で開かれた「伊勢湾シンポジウム」に出て、伊勢湾が今まさに瀕死の状況にあることをあらためて教えられた。ハマグリ、クルマエビ、蛸など漁獲資源の激減が、湾口の本来最もきれいな海にある神島でのアワビの激減は、昔の様子を知っている自分には大きな衝撃だった。
 これには、長良川河口堰が伊勢湾に入るべき清流を堰止めるなど、水系を含めた伊勢湾をとりまく全体状況が関係しているに違いない。その上に中部新空港として常滑沖の浅海域や、三河港内でも豊川河口の六条潟の埋立が計画され、こともあろうに、保全される藤前干潟の代わりとして西5区南など新たな浅海域の埋立が検討されているようだ。さらに、藤前干潟の源流域になる海上の森の広葉樹林は2005年の環境博と表裏一体の新住宅開発とで決定的なダメージを受けようとしているのである。
 いまここに、それぞれの詳細を述べる余裕は無いが、21世紀の都市や社会のあり方に正しい指針を示そうという志があるのなら、藤前干潟とともに海上の森を全面 的に保全し、そのすばらしい自然と、守るために私たちの社会が取り組んだあたらしい開発や循環型システムの実物を見てもらう、文字通 りの「環境博」を根本から考え直すべきだろう。
 また、欧米では、既に干潟・浅海域の保全は勿論、これまでに失われた環境の復元・再生に向けての具体的な取組みが始まっている。9月27日にはそうした先達に学びながら、あらためて伊勢湾という母なる海を見直し、その再生を考えてゆきたいと思う。



写真キャプション
藤前干潟におけるNGOの鳥類調査。調査結果が、環境アセスメント評価書の結論に大きな影響を与えた。

 

諌早から藤前へ−NGOの学んだもの
古南幸弘 (財)日本野鳥の会自然保護センター副所長


●激動の年.1997年
 1997年は、環境保全にとって劇的な幕開けとなりました。1月、日本海におけるナホトカ号油事故。そして4月、諌早湾の潮受け堤防締め切り。2つの大事件の報道は、多くの人の胸に、私たちの社会が自然環境に対していかに理不尽な行為を成しているか、を、深く刻みこむことになったに違いありません。もちろん、私たちのような全国的なNGOにとってもそれは同じでした。またそれが、次の行動へのバネともなったのです。藤前干潟をめぐる最後の攻防が行われたのは、まさにこのような巡り合わせの時でした。

●諌早の遺したもの 諌早干潟は、多くの渡り鳥が渡来する日本有数の干潟として、その広大さと共に野鳥観察者にはよく知られた存在でした。それだけに、1986年の環境アセス以来、干拓事業の問題は私たちにとって重くのしかかる存在でした。しかし、いわゆる「ギロチン」の報道映像の衝撃と反響に、粛々と進んでいた事業の流れをくつがえせる希望を感じ、それが「諌早干潟緊急救済本部」を柱とした連携行動につながったと言えます。
 結果的には、水門の開放と干潟の復活は短期では実現できませんでしたが、諌早本部の山下弘文氏と東京事務所の西田研志弁護士を中心に、短期決戦型で専門家による事業批判を文書化し、これをもとに国会議員へ働きかけ、またマスコミに訴えかける、といった経験を残しました。 

●藤前、全国区に
 1997年末から1998年頭にかけて、アセスメントの審査を巡って名古屋市環境影響審査会が追加調査の続行か、答申作戦かで揺れた辺りから、藤前を諌早並みの全国的な問題としてクローズアップしようという機運が、諌早救済に関わったNGOの間から生まれてきました。私たちは、多くの関係者にすばやく連絡をとるために有効かつ経済的な、電子メールによるメーリングリストの仕組みを、諌早の連携のためにいち早く立ち上げていましたが、このメーリングリストの中でも、次は藤前という課題が徐々に意識されつつありました。辻淳夫氏が発信される大量 のメールがメーリングリストに流され、その後問題となった人口干潟の実態といった案件の情報が、それに答えて共有化されていったのです。
 藤前の野鳥保護上の位置を明瞭にした根拠のひとつに、1997年10月、環境庁自然保護局が公表した「シギ・チドリ類渡来湿地目録」があります。この目録で、藤前が諌早に次いで全国第2位 の渡来数を記録していたことが明らかにされました。この目録は、ラムサール条約の登録基準に基づいて重要湿地を選定していますが、注目すべきはこの基準が、生息する鳥の数と、その数がその鳥の全数に占める割合を重視していることです。これにより、一つの干潟が持つ重要性が、量 的に明確にされたと考えられます。
 マスコミの報道も「ポスト諌早」を意識した記事が掲載されるようになりました。こうした状況の中で、自然保護NGOは要望書の提出といった手段で、繰り返し問題の全国性をアピールして行きました。

●ミティゲーションと人工干潟
 1998年3月、名古屋市の環境影響審査会は、「事業予定地における鳥類などの生息環境及び周辺水域の水質等干潟生態系に影響を及ぼすことは明らかである」とする審査書を明らかにします。「影響は小さい」としていた準備書の結論がくつがえった重要な瞬間でした。
 しかし、この記述に続く部分では、自然環境保全措置として人工干潟の造成、既存干潟の部分的嵩上げといった代償措置を挙げたのみでした。
 こうした代償措置(ミティゲーション)の考えの摘要の仕方については、NGO側は強く反論しました。すなわち、ミティゲーションは回避、低減、代償措置(狭義の)という3つの要素から成り、かつ、この順に検討を行うべきという主張です。こうした考え方は、ミティゲーションの制度を発達させたアメリカでは制度的に確立されており、また、1999年6月施行予定の環境影響評価法にも反映されていることを根拠としました。 この考え方は、同年12月に環境庁が名古屋市に対して示した「藤前干潟における干潟改変に対する見解」において、明確に支持されることになります。環境への影響の程度を比較考量 しない、技術過信の「ミティゲーション」の考え方は、ここで否定され、社会的手続きの枠の中で議論すべきことが明確になったと言えます。
 
●国会への働きかけ
 1998年8月、愛知県知事意見を踏まえた環境影響評価書が縦覧され、公有水面埋立が申請されるに及び、この申請の審議を行う運輸省、環境庁の動きを意識して、日本野鳥の会、WWFジャパン、日本自然保護協会、日本環境財団などは、共同の集会を開催し、また国会議員への働きかけを活発化させました。9月、「諌早湾を考える議員の会」は総会で名称を「諌早等干潟・湿地を考える議員の会」と改称、藤前保全を次の目標とすることが確認され、現地視察、市長と市議会への要請行動へとつながって行きます。10月には衆議院環境委員会の視察が実現、また野党のみならず与党議員の中から埋立てノーの声が上がりはじめ、諌早では実現できなかった、与党を含む国会内の世論の方向は大きく藤前保全へと向かうことになります。諌早で学んだ経験と教訓が生かされた、と思える局面 でした。
 
●連携と協力
 こうした一連のNGOの動きの中核には、常に現場からの声と情報を伝え広め、その時点の課題を整理して活動をオーガナイズしてきた藤前干潟を守る会の存在がありました。そして、そこに共感する多くの人の輪、またそれを更に広げ、世論をつくってゆく自然保護NGOの連携が成立してはじめて、困難な保護の決定がなし得たと思います。
 諌早から藤前への動きの中で、「干潟」の自然の重要性が今ほど、多くの人々に共有化されている時代はかつてなかったのではないでしょうか。
 藤前以降の各地の干潟保全問題(三番瀬、吉野川河口、和白など)の迎えている転機が、それを示していると思います。そして諌早湾干拓事業も、農水省の「時のアセス」にかけられる予定であることが報道されました。ここで得た多くの人々の共感がよりよい保全の形を生むべく、これからもNGOの課題は続きます。


藤前干潟はいかに守られたか
−名古屋市の環境アセスメント手続き−
  花輪伸一(WWF Japan 自然保護室)

 一九九八年一一月の「広報なごや」(名古屋市役所)には、藤前干潟のゴミ埋め立てを 正当化する市の主張が大きく掲載された。一年後の同広報には、市民の声を掲げ、専用 のゴミ袋使用とゴミの減量を呼びかける記事が載せられている。この大きな変化は、干 潟をゴミ埋め立てでつぶし、環境を汚染するという二重の自然破壊を、名古屋市がとり やめる決断をしたことによる。市の姿勢がよい方向へ変わりつつあるあらわれであろう 。
 もちろん、藤前干潟のゴミ埋め立てが断念された背景には、辻淳夫氏、古南幸弘氏が すでに前号、前々号等に記しているように、「藤前干潟を守る会」の長期にわたる活動 、特に、アセスメント審査に大きな影響を与えたシギ・チドリ類調査、市民への普及教 育活動、また、多くのNGOや研究者の支援、環境庁の決断、国会議員の活躍、世論の 盛り上がり、ラムサール条約などの国際的な動きがあり、これらが功を奏したわけであ る。
 一方、私は、上記に加えて、名古屋市の環境アセスメント要綱には、市民側に役立つ 進歩的な面があったのではないかと考えている。一連の環境アセスメント手続きのなか で、もちろん「藤前干潟を守る会」などNGO側の大きな努力があったのだが、情報や 準備書の入手、意見書の提出や公聴会での発言など、市民参加の機会を有効に利用でき たのである。市役所側は、その思惑は別として、環境アセスメント要綱に従い、淡々と 手続きを進めざるを得なかった。これが埋め立て断念に到った原因のひとつであると 思われる。他の自治体の要綱や条例、運用の仕方だったら、このようにはならなかった のではないか。
 環境アセスメント手続きが開始されたのは、一九九四年一月であった 。アセスメント準備書ができたのは、一九九六年四月である。同年八月にはこの準備書 についての説明会が開かれた。私は、辻淳夫氏らとともに、南陽地区会館、南陽清掃工 場での説明会に参加した。土曜日の午後に地元で、という設定にも関わらず、当日は市民側の参加者よりも名古屋市関係者の人数が多かったのである。この時はまだNGOの動きは低調であった。市もひとつの手続きとして説明を行ったにすぎない。しかし、これが、アセスメント手続き上のNGO参加の出発点になったと思う。少なくとも私にとっては大きな動機付けになり、それは名古屋への出張回数に反映されることになった。公聴会は、一九九七年の五月から八月にかけて、三回開かれている。一〇人の意見陳述 人は公募であり、私もその一人に選ばれた。応募者が少なかったことにもよるが、名古屋市は、名古屋市民ではない陳述人も複数受け入れた。また、陳述人は全員がゴミ埋め立てに反対あるいは批判的であった。これは市役所側にとっては予想外だったかもしれないが、賛成意見を述べようと応募した市民はいなかったのだろう。陳述人選定は、そのまま世論を反映していたのである。また、公聴会が紛糾し、一回では終わらず、結果 的には三回、三か月におよんだのだが、手続き上必要なこととはいえ、市側が途中で打ち切らずに最後まで続けたことは評価できる。公聴会での発言を記録し、印刷物として 配布したことも同様である。
名古屋市のアセスメント審査委員会は、一九九八年三月に、それまでの準備書では「渡 り鳥への影響は少ない」と書かれてあったものを「渡り鳥と干潟の生態系へ影響を及ぼ すことは明らか」と変更させるという、衝撃的な結論を導き出した。これは「藤前干潟 を守る会」の調査データにもとづく結論のほうが、名古屋市がまとめた結論よりも説得力があり、より真実に近いことを、審査委員会が認めたことによる。名古屋市のデータ処理の仕方が作為的であると批判したものと言ってよい。しかし、はじめからそうだっ たのではなく、委員会が結論を正しい方向に導くためには、少数の委員の大きな努力があったのだ。報道等で伝えられているところによれば、審査委員会は、はじめのうちは名古屋市の結論を追認する方向にあったようだ。鳥類を専門とする二人の委員が、辞任 覚悟で強く追加調査を主張し流れをかえたのである。それでもなお、委員会は人工干潟による代償措置を提言することにより、干潟埋め立てを容認してしまった。市長の諮問委員会として、まさに市側に都合のいい人選が行われ、長い間安住してきた委員会の姿である。しかし、二人の鳥類学者は藤前アセスの審査のためだけに選ばれた特別 委員だった。さらに、代償措置の委員会にも筋の通った発言をする鳥類学者を加えた。要綱によるものではないが、実は、名古屋市はいい人選をしているのである。
一九九九年の六月から新しい環境アセスメント法が使われるようになった。しかし、代 替案の検討がない、主体者が事業者本人であること、市民参加が不十分であることなど、問題は少なくない。場合によっては、名古屋市のアセスメント要綱より後退する状況にもなりかねない。しかし、藤前干潟をめぐる一連の環境アセスメント手続きのなかで、NGOが作り上げた実績は、今後の活動を進める上で大いに役立つものになっている。特に、国内外のNGOや地域住民、研究者、学会、さらに議員、行政関係者をも含む 市民ネットワークが、アセスメント手続きに関与してきたことの意義は大きい。他の環境問題にも応用できるだろう。
野鳥の保護から干潟の保全、ゴミの問題、そして住民自身が望む地域計画づくりへと、 藤前干潟の問題は発展してきた。日本では先進的な事例といってよいだろう。今後の課題としては、干潟保全のための地域指定(国設鳥獣保護区、ラムサール条約登録地など)、教育的な活用の方法、森・川・海の水系全体を視野に入れた保全策などを、民間からも行政からも知恵を出し合って実現していくことである。


藤前干潟はいかに守られたか
 柏木 実 (日本湿地ネットワーク運営委員)

 韓国の北西端にある長峰(チャンボン)島。首都ソウルを流れるハン江(ガン)河口の 島の一つである。藤前では干潟の先の横断橋が視界をさえぎる距離よりすこし先にある砂 州や島の重なりの先にも干潟が続く。岬の反対側の干潟はみお筋がいくつもうねる。しかしその先には、一五Kmを隔てた二つの島の間が埋め立てられ、新空港の管制塔になるらしい塔が見える。島の反対側には胸まで達していた泥の干潟が三年間ですっかり小石が露出した入り江がある。空港の埋め立てでハン江河口の流れが変わり、この干潟の泥を流し てしまったのではないかという。
 この豊かな、しかし破壊の脅威にさらされた干潟を前にして、大都市のすぐ近くにある 藤前干潟の貴重さ、そしてその保全の価値を思い起こす。大都市の中心から、バスに乗れ ばたった二百円の所に、アナジャコや、ゴカイや、ハマシギたちの、生命の豊かさを感じ られる場所がある。ストレスにあふれた都市の中にある藤前干潟が守られたことは人が考 える以上に大きい。これは、7月号から辻氏、古南氏、花輪氏の記してきたように、藤前 干潟を守る会(以下「守る会」)の人々の熱意と周囲の人々や団体・組織の思いとが、いく つもの側面でうまく絡み合い、保全への力となった結果である。干潟を守りたいという熱意と情熱が内外の人々の協力によってどんな力になったかについて考えたい。

 藤前干潟に関する動きが頂点に達していた一九九八年四月二七日、守る会はハマシギ一 斉カウントを実施した。この時期に多くの人々に藤前の存在を知ってもらうための三月から五月にかけて計画された一連の行事の一つだった。前日はハマシギシンポジウム。藤前の普通 種ハマシギについて、アラスカから招いたハマシギの研究者デクラン・トロイさん と共に繁殖地と越冬地を結び、個体数の減少など多角的に情報を交換した。当日は、トロイさんといっしょに守る会をはじめとするNGOメンバーが藤前干潟を囲み、満潮をはさんで、渡り鳥たちがいつ、どこに、何羽いるのかについて一日の移動を調べた。たくさんの人々が何か所にも分かれて協力をし、まさに人海戦術。その結果 、渡りの途中の鳥たちは干潟が現れるのを待ちかねて藤前干潟に集まって採餌をし、潮が満ちて干潟が消えると そこから離れて休息することが、市民と専門家の協力によりデータの形で明らかになった。
調査を翌日実施した調査会社もほぼ同じデータを得た。
 干出率をもとにして計算し、藤前干潟は重要でないと断じた環境影響評価準備書は間違っているという市民たちの直感を、データの形にしたことが事業者のデータを覆えし、環境庁や、名古屋市を説得する武器となった。これは、干潟を愛する思いを開発の圧力で長年つぶされてきた各地域の保護団体(とその集まりである日本湿地ネットワーク(以下J AWAN))がつかみ取った方向であり、湿地についての市民のデータが充分武器となりうることを確認した出来事である。藤前を現在日本最大の渡来地とした環境庁の「シギ・ チドリ類渡来湿地目録」の一部にデータを提供した「シギ・チドリ類全国カウント報告書」 も市民たちの積み上げて作った「力」である。辻淳夫氏がJAWANと鳥仲間のネットワ ークを動かして作り上げたシギ・チドリ類の個体数データである。

 このハマシギシンポジウムには、もう一つの側面がある。トロイさん来日の背景にある、日本の湿地の現況を憂える多くの海外の人々のサポートだ。一九九三年の釧路ラムサール条約会議を契機に、藤前や諫早を初めとする日本の湿地、特に干潟の危機に対して、多くの関心が寄せられた。その後の経緯や訴えを日本のNGOは、JAWANの鈴木マギーさんを中心としてインターネットやファックスなどの通 信手段を使って、送り続けた。藤前干潟保全を求めて海外から名古屋市長宛てに送られた五〇通 を越える訴えや、環境影響評価準備書に対する二〇通の意見書は、オーストラリア、ニュージーランドをはじめ多くの海外の人々がそれらの情報を下に自分たちの問題として行動してくれたことを示す。藤前と日本の普通 種ハマシギにスポットをという辻さんのアイディアもそれに応えた海外の人々の協力で実現した。
 海外からのサポートの例をもう一つ挙げよう。一九九八年三月、日本湿地ネットワークはオーストラリアの連邦環境大臣から「渡り鳥の重要な渡来地の保護は自分たちに大きな問題であり、日本政府に問い合わせをしました」という書簡を受け取った。これは(財)日本野鳥の会、(財)世界自然保護基金日本委員会、日本湿地ネットワークの三者が共同で、日本が渡り鳥保護条約・協定を結ぶ露・米・中・豪の環境大臣に宛てて送った書簡への返答だった。ラムサールCOP6(一九九六年)で東アジア・オーストラリア地域水鳥保全戦略を共同提案したオーストラリアからの働きかけは日本政府、特に環境庁のキャリアの人々にとって大きな力となったことは容易に想像できる。さらにオーストラリアの人々の背後からの働きかけも見逃せない。水鳥保全戦略が作成された時、オーストラリアのNGOと政府の緊密な協力は印象的だった。その関係が環境大臣からの問い合わせにつながったことは想像に難くない。

 以上、藤前を守った多くの側面の一つとして、干潟を取り巻く人々の熱意が、科学的デ ータや政府からの手紙という「力」に変わったことについて述べた。しかし、日本では、 三番瀬、吉野川、曾根干潟など、開発の計画は依然継続しており、諫早湾、和白干潟や、 児島湖のような破壊の例も数多い。そして韓国、中国でも、多くの干潟、湿地が脅威にさ らされ続けている。市民、NGO、専門家が国を越えて手をつなぎ、あらゆる形の「力」 を追求しなければならない。
 日本から帰ったトロイさんからの合衆国政府への働きかけもあって、1999年から日本 で減少しているハマシギについての日米の共同調査が始まった。これが「力」となりうる かは今後の課題ではある。ゆっくりとではあるが、動き始めたように見える。


藤前干潟−国際的な問題
 鈴木マギー (日本湿地ネットワーク 国際担当)

1990年のラムサ―ル条約締約国会議(スイス)へ行ったときの遠足でした。
湖の観光船にのっていて、辻淳夫さんにいただいた「SAVE THE  FUJIMAE」と英語で書いてあったジャンパーを着ていました。
イタリアの役人さんが半笑いで私に尋ねて、「富士山はどうかしたんですか?」 と。自分のジョークに満足して、私の返事を聞こうともしませんでした。その人がもし1999年のラムサ―ル会議にも参加していたら、藤前は富士山ではないことをやっと分かってきたと思います。辻さんが藤前干潟が保全されることになったと全体会議で報告したからです。そんなことは、90年の会議の状態を考えると、夢のようなできごとでした。

藤前干潟を守る運動は概ね2つの道で国際的にとりあげられたと思われます。
それは、直接的に海外の個人、NGO、専門家、政府自治体への呼びかけと、 ラムサ―ル条約やアースデイーのような国際的な取り組みや運動を通 してのもの でした。

国際的なアピールの基本も概ね2つに分けられると思います。
一つは、藤前など日本の干潟にくる渡り鳥はどこかの特定の国に生息する生物 でなく、一年中でいくつかの国で生息するものです。ラムサ―ル条約(そして2 カ国渡り鳥協定)はもともと渡り鳥を守るために発足されたものです。もう一つは、環境アセスメントという世界中で行われているプロセスです。環境アセスに関するはっきりした国際的な「基準」はないが、本来のアセスはな んだと、いくつかのガイドラインと専門家の意見があります。

藤前干潟の埋め立て計画は、それが特徴とも言えるほど、渡り鳥に関しても、アセスに関しても、明らかにとても酷い話だったので、アピールしやすいもので した。1998年環境庁の渡り性シギ・チドリの調査でさえ、すでに破壊された諫早干潟の次ぎに多くのシギ・チドリが藤前干潟で生息していることが確認されました。鳥と湿地の価値について少しでも意識している人には、マサカそこにゴミを捨てるなんて、だれだってとんでもない話だとすぐ納得します。藤前の埋め立て についてのアセスも、必要な調査もしない、市民の意見も聞かない、ズレ、ミス、 ごますりがいっぱい、結局は事業者が自分で判断するもので、アセスについて少 しでも知識がある人には、また酷い話だとすぐ納得できたと思います。一つ説明 しにくいのは、なぜ名古屋市がそれほどしつこくこの不適切な埋め立て事業にしがみつくのかということだけでした。

これらのことと、伊勢湾の埋め立て歴史の中で僅かしか残っていない干潟の価値 を説明する、わかりやすい英語の資料を作って、藤前を守る会が絶えずアップデートをしました。

ちょっとだけ振り返ってみましょう。

アースデイ:
アースデイは1970年に初めて行われた、現在は世界中に広がった啓蒙活動です。
日本では、アースデイが盛んになリ始めたのは1990年ごろでした。名古屋のアー スデイを実行した団体の中で、ゴミやリサイクルの問題を考えているグループの 中でも、藤前を守るグループが活躍していました。そこで、名古屋の環境問題に 取り組んでいる団体個人が藤前の問題を知ることができ、また、名古屋のアースデイのイベントが大きく、賑やかになりました。

ラムサ―ル条約:
1993年のラムサ―ル会議が日本(釧路)で開催されることをきっかけにして、70年代から全国の干潟を守る運動のつながりをつくってきた藤前と汐川の市民グループが諫早、博多と東京湾の干潟を守るグループと組んで、日本湿地ネットワー ク(JAWAN)を1991年に作りました。今も藤前干潟を守る会の辻さんは、諫早の山下弘文さんとともにJAWANの代表になっています。JAWANは、世界野生生物基金、日本自然保護協会、日本野鳥の会と北海道自然保護協会と一緒に「ウエットランド会議」をつくって、93年の釧路会議を迎えました。
その結果、日本でのラムサ―ル会議や湿地に関する意識が著しく高くなりました。
そして、ラムサ―ル会議自身にも大きな影響を与えたと思います。釧路会議までは、その他の環境や自然に係わる国際条約と違って、ラムサ―ル条約の締約国会議では、草の根の市民・自然保護団体の姿はほとんど見えませんでした。国際的 な専門団体は未だに目立っているが、釧路会議を初めとして、96年のブリスベン会議も、そしてさらに99年のコスタリカ会議では、草の根団体の動きがとても活発になってきました。
93年の釧路会議で、日本や香港NGOのロビー活動の結果で「東アジアの渡り鳥のルートにある干潟などの湿地を守るよう」の趣旨を持つ勧告が採択されました。
この時点から環境庁が渡り鳥にかんする活動が活発になりました。96年のブリスベン会議が湿地の環境アセスメントに関するガイドラインを採択しました。日本がそのころ新アセス法を検討していたところでした。日本のNGOからのロビー活動がなかったらそのガイドラインが採択されなかったかもしれません。藤前のアセスはそのガイドラインにも当てはまらないことが明白でした。そして、99年のコスタリカ会議で、韓国のNGOと共にロビー活動をした結果 、干潟や浅海域を守る趣旨を持つ決議が採択されました。ラムサ―ル事務局も藤前や諫早、日本の湿地の問題について深く興味を持っていて、政府に情報提供を求める手紙を出すこともありました。

直接のアピール:
藤前を守る会が何回か直接的に世界の仲間へ、支援の手紙などを出してもらうよう アピールをしてきましたが、はっきりと文書になっているのは1996年の環境アセスに関する意見書でした。全国の専門家、自然保護団体や個人から40以上の意見 書の上に、オーストラリア、ロシアとアメリカからも貴重な意見書が名古屋市へ届きました。12人の海外の仲間からの手紙の翻訳も含む48の意見書が藤前を守る 会が出版した「藤前アセスメント準備書への意見」に記録されています。
このアセスメントの酷さは、国内のアセスメント学者の注目を集めて、1998年4月 の国際影響評価学会が、アセスの見なおしを求めた「藤前干潟勧告(緊急提言)」を採択しました。

さて、ラムサ―ル条約やその他の国際的な要因がなかったら、藤前干潟が守られた でしょうか。人間の人生の中でこれまでのこと全てが今の自分を作ったように、藤前の歴史を作ったのは、私達が見えることも、見えないことも全てが含められ ました。諫早湾の1989年のアセスメントに関して、データの根拠がないため止む得ずに「OK」をだして、それからシギ・チドリの調査を始めた環境庁の決心が 確かに大きな原因になったと思います。が、93年のラムサ―ル会議のきっかけで産まれたJAWANの存在と、マスコミや一般 市民の湿地に関する意識がなけれ ば、環境庁がシギ・チドリの調査結果をあのように生かす環境はなかったでしょう。

→英語版あります。


住民投票条例と藤前干潟
「藤前干潟の埋立をやめ全面保存すること」の是非を問う住民投票を求める実行委員会・代表世話人
(藤前干潟・住民投票の会代表世話人)
   中川武夫

昨年一月二六日のマスコミ各紙は、一面トップで「名古屋市『藤前干潟埋め立て断念』」と報じた。藤前干潟をごみの最終処分場として埋めることに固執し続けた名古屋市も、ついに埋め立て断念に追い込まれた。住民を中心とした粘り強い運動の成果 であり、中海の埋立、長良川河口堰建設、諌早湾干拓、御嶽町の産廃処分場問題などなどの環境問題に対する国民的な感心の高まりの成果 でもある。
藤前干潟の生態系から見た重要性や埋立断念に至った経過などはすでに藤前干潟を守る会の辻さんやWWFジャパンの花輪さんが述べられているので、私はここでは「『藤前干潟の埋立』の是非を問う住民投票条例制定を求める直接請求運動」について述べてみたい。

◇藤前干潟問題の経過
藤前干潟は、名古屋港の一番奥、庄内川と日光川にはさまれた地域で、西1区とされている。公有水面 下でありながら、登記され所有権が設定されて、その所有権をめぐって裁判が続けられていた。裁判のおかげで、名古屋港ではすでにほとんどの干潟が失われたにもかかわらず、奇跡的に手付かずで残された。
一九七六年に名古屋市廃棄物対策研究会が廃棄物による埋立を提言し、一九八一年に、西一区一〇五fを一般 廃棄物及び浚渫土砂の処分用地及び国内貿易埠頭とする「計画」が決定された。当初計画では、最終処分場の実情から「一九九〇年から埋立て開始が必要」としていた。
その後、名古屋市が所有権の存在を認める形で裁判が終結したことで、九三年には事業予定地一一八fが約四七億円で名古屋市土地開発公社が、九七には名古屋市がこれを約五七億円で購入した。
この間、九〇年の中央港湾審議会で、環境庁は「残存する干潟を中心にシギ、チドリ等の渡り鳥の重要な渡来地となっている。事業の具体化に際して、事前に十分な調査検討を行ない、鳥類の生息環境の保全に万全を期すこと。」と発言していたことが、国会答弁で明らかにされた。

◇住民投票直接請求運動の経過
九四年一月に「名古屋市のアセス要綱」に基づき「現況調査計画書」が縦覧。
九六年七月に、当初の予定より大幅に遅れて「環境影響評価準備書」が公表された。当時、名古屋市長は「年内に環境影響評価の手続きを終え、年明け早々に公有水面 埋立の出願手続きに入りたい」などの発言を繰り返すなど、環境影響評価の「実施責任者」であることを放棄した態度に終始していた。
九七年には、市長の諮問機関である「環境影響評価審査委員会」の座長が、「ゴミの事を考えると審査をいそがねば」と発言、これで環境影響評価制度は「脳死状態」になった。
準備書公表直前の九六年七月八日には、環境庁が該当地域周辺を「国設鳥獣保護区に設定したい」と意向表明がされていたことも、後に国会答弁で明らかにされたが、この時点では市民にも、市議会にも、環境影響評価審査委員にも明らかにされることがなかった。
九七年五月には環境影響評価の「公聴会」が開催されたが、港湾計画に定められた「一〇五f」、縮小された計画の「五二f」、さらに環境影響評価が実施されている「四六・五f」の関係について、事業者の明確な答弁がないことで混乱し、結局時間切れで三回開催された。
九八年三月に公表された、名古屋市の環境影響評価審査書は、一部審査委員の努力も有り、「鳥類と干潟の生態系に及ぼす影響は明らか」と指摘した。
多くの市民はに「ごみ減量への取組みを放置して、なぜ世界的にも重要とされる藤前干潟埋立を強行するのか」「世界に恥ずかしい」といった声が、日増しに広がっていった。しかし、九月議会には「藤前埋め立て」が提案され、共産党議員以外の賛成で、可決されてしまった。
「圧倒的多数の市民の意向とはかけ離れた方向へ行政と議会が動くなら、直接請求で市民の意向を明らかにするしかない」産業廃棄物処分場や原発、河口堰を巡って全国各地で行われた運動に学び、「『藤前干潟の埋め立てをやめ、全面 保全をすること』の是非を問う住民投票条例請求」の直接請求運動をとにもかくにも始める決断をした。
直接請求署名を始めるに当っての記者会見で、「圧倒的多数与党の中で、条例が制定されると思いますか?」と質問され、「容易ではないが、多くの市民の意向が明らかになれば、態度を変える議員もでてくるであろう。また、市民の意向が数で示されれば、保全を求めている環境庁を激励することにもなる。」と答えた。
署名運動開始後、様々な動きがあった。
・十一月十八日名古屋市がそれまで不可能としていたビン・缶のごみ分別収集を九九年五月から全市に拡大すると発表。
・二〇日 環境庁長官、「埋め立て代替案の検討を市・県に伝えてある」。
・十二月五日環境庁自然保護局小林計画課長が「藤前干潟はまず保全ずることが前提。これは環境庁の公式見解」と発言。
・八日環境庁長官「藤前干潟の消滅や破壊には厳しく対応しなければならない」 。
・十日 黒野運輸事務次官、「環境庁の意見はかなり重い」と記者会見。
・十一日 川崎運輸大臣「環境庁が絶対だめというなら処分場はできない。」。
ほとんど全てのマスコミが「主張」で藤前干潟の保全を掲げた。こうして、直接請求署名活動の期間、連日のように保全への動きが高まった。「たった十年のゴミのために、貴重な干潟を埋めるべきではない」の主張は、多くの市民や国民の思いでもあったのだ。
愛知県知事選挙の関係で、ほとんど準備期間がとれず、走りながら体制をつくる苦しい運動であったが、署名を始めればどんどん集まってくる、受任者が運動の中で元気になる、まさしくそんな状態が作りだされ、署名運動は大成功したのである。
条例は市議会で多数で否決された。しかしこの取組みがさらに一歩名古屋市を追い詰めたのは間違いない。議会でこの運動を「烏合の衆」と侮辱した議員がその後の選挙で落選したこともその一つの現れだと思う。

ともあれ、藤前の運動を吉野川可動堰の住民投票に繋ぐことができ、ある面ではほっとしているというのが正直な気持ちである。


諌早から藤前、そして…    
山下弘文(日本湿地ネットワーク) 


 伊勢湾藤前干潟の保全が決定した瞬間、私は七〇年代初期から始まった、長い道程を思い浮かべた。闘っても、闘っても負け続けた歴史だった。日本にも、ようやく干潟を中心とする自然保護の苦しい闘いに、微かな光が灯されたのである。その切っ掛けとなったのは、やはり諌早湾閉め切りの衝撃だろう。
 四月一四日で、国内外の批判をよそに諌早湾三五五〇ヘクタールが閉め切られて三年目になった。現在なお、干潟を回復するための水門は開放されていない。しかし、閉め切りの影響は、聖域といわれていた日本の公共事業見直しに大きな影響を与えてきた。
 閉め切りの日、私と家内は「世界一長いギロチン」と、名付けた二九三枚の鋼板が落ちる瞬間を見なかった。閉じられた門に素早く潜り込んだ私たちは、多くの農水省職員、警備員、警察官に取り囲まれた中で抗議行動を行っていたからだ。その衝撃的な映像は、テレビニュースで見た。その瞬間私は「この闘いは勝利した!」と直感した。
第一に、二七年もの間、孤立無援の闘いを続けてきていたが、県や諌早市内では、ほとんどの人々が無関心であった。それがあの衝撃的な映像で一気に全国化するだろうと予感したからだ。予感は当たり、国内どころか海外まで諌早湾の暴挙は知れわたった。
 第二は、閉め切るためのボタンは一つで良かったのに、ダミーを含め十一個のボタンが押されたことである。これは死刑執行と同じであり、ボタンを押した者は、だれもこの事業に責任を持たない無責任極まりない行為であり、この事業が全く公共事業ではないことを端的に示していたからである。
 閉め切り直後から、全国からの反響はすざましいの一言につきた。諌早市を中心に、全国からも多くのボランティアが参加してきた。これらの人々は当初「ムツゴロウ救出作戦」などのイベントを企画し活動を行った。しかし、ムツゴロウ救出作戦は、七〇年代に私たち全国の干潟保護運動が負け続けた、相手側の論理「渡り鳥か、人間の生活か」という論理と同じ土俵に乗ることになり、問題点をそらす根拠となると考えた。案の定、自民党や識者の一部から「ムツゴロウが大切なら、タイやヒラメはどうなる」などに象徴されるような反論の根拠になったことも事実である。
 こうした中で全国からの講演、シンポジウム参加の要請が引きも切らなかった。しかし、その内容は、当初の「ムツゴロウは救えないか」という論議を越え、自ら係わっている公共事業と諌早湾干拓事業を関連させ、どうすれば公共事業を見直しや中止に追い込むことが出来るのか、という根本的、政治的な論議が中心的な課題となってきた。
 東京では救済本部東京事務所が設立され、活発な政治活動や教宣活動が展開された。自然発生的な活動は、大阪、京都、博多、大牟田など全国的に勝手連的な救済事務所が設立され、現在もなお活動が続けられている。一方、超党派の国会議員も「小異を捨てずに、大同に付く」という考えから「イサハヤを考える議員の会」を設立、国会内外で活動を続けた。現地諌早にも各党首を含む多くの議員が訪れてきた。この会は現在「干潟・湿地等を考える議員の会」に衣替えし、各地の湿地・干潟保護の活動に積極的に参加している。
 全国的には、ラムサール釧路会議前に結成した「ウエットランド会議」(日本湿地ネットワーク、WWF−J、野鳥の会、日本自然保護協会、地球の友五団体で結成)が中心となり全国署名活動も行われた。署名は三〇万人を越え、首相官邸に持ち込まれた。閉め切り一周年には、東京事務所の呼びかけで「諌早湾閉め切りを忘れまい」というスローガンのもとに、四月一四日を「干潟を守る日」とし、以後、全国各地で干潟保護・公共事業見直しの数々のイベントが開催されている。
 こうした全国的な抗議に、ついに橋本総理は公共事業に「時のアセスメント」を適用するよう指示を出さざるを得なくなり、公共事業を担当する各省庁は「再評価実施要領」を策定し、まがりなりにも、公共事業の見直しをしなければならないように追い込まれていった。私は、これを「ギロチン効果 」と呼んでいる。これは私たちの政治的な最大の成果であった。九州では大分県臼杵市的場ヶ浜、熊本県天草羊角湾干拓、本渡市干潟開発中止。沖縄干潟開発の見直し、福岡県曽根干潟開発縮小、などの大きな成果 を上げつつある。
 現地では、農水省のアセスメント予測が全く外れ、最大の目的と言われた防災は、昨年七月二三日の諌早市を襲った集中豪雨では、市内全所帯の九割に避難勧告が出された。賛成派農民からも、打ち続く干拓地冠水を見て、あからさまな賛成の声は聞こえなくなった。
 営農計画も、委員の中からさえ異議が出され、結論は先送りされている。
 調整池水質は悪化の一途をたどり、有明海全域に及ぶ広範な漁業被害が続出してきた。佐賀県大浦漁協の若手漁民たちは、十年間の沈黙を破り、農水省と長崎県に対し干拓中止と水門開放を要求して、実力行使に入った。
昨年九月県議会で金子知事は、二〇〇〇年度に事業が完了しないことを認め、完成は六年ずれ込み二〇〇六年になることを発表。農水省もこれを追認した。また、事業を左右する投資効果 を大幅に下方修正し一・〇一という、すれすれの数字を公表した。今年は諌早湾干拓事業にとって最大の山場がくる。土地改良事業等再評価実施要領で見直しが始まる。
 この実施要領にも問題がある。「関係団体の文書による聴取」となっているが、農水省は、これは関係自治体の長であると強弁している。また、第三者委員会で審査するが、この委員は農水省が任命した「中立の立場」を取る学識経験者と言う。これは六〇年代から始まった公害事件の時と、全く変わらない。「中立」とは、賛成派の立場であることは、公害の歴史が証明している。これを打ち破ることが、当面 の課題である。
諌早湾の闘いは、これからが正念場だ。単なる感情的な思いでは問題は解決しないことは、吉野川住民投票で明らかだ。運動に参加する一人ひとりが科学者として活動することが必要になってきた。「市民による科学」の確立である。いま、全国各地で住民がエセ科学を相手に市民の科学で四つに組む闘いを展開している。こうした闘いは七〇年代では考えられない、歴史的、画期的な転換である。
 諌早湾水門解放は、闘いの序盤戦に過ぎない。疲弊する有明海・不知火海漁業の回復を図らなければならない。この運動は新しい市民側からの民主化闘争、政治闘争、科学闘争でもある。「諌早から藤前へ。そして諌早へ…」。二一世紀を「人権と環境の世紀」にすることが、私たちの最終的な目標である。

 


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